尾道市 住吉花火祭り |
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長崎県 ハウステンボス |
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阿蘇山 & 太宰府天満宮 |
2002年10月19日、ちょっと怪しい天気の中、家族3人で阿蘇への旅。 福山から高速に乗って、コンバーチブルはひたすら福岡県を目指して走ります。 往路ですでに雨が激しく降り出してしまい、明日の阿蘇観光は大丈夫なんだろうかと不安。 途中2度の交通事故を目撃するが、我家は無事に久留米市に到着。 約5時間の夜のドライブは、雨のおかげで快調とはいえないものでした。 翌日の好天を期待しながら就寝。 雨は上がっているがかなりの曇天模様で、運任せな日になりそうです。 駐車場に行くとキャンバストップに雨が一杯たまっていてしみ込んでいそう。 なんとかそんな事もなく九州自動車道で熊本まで走る事にした。 途中の北熊本サービスアリアで朝食を食べたが、地元の料理らしきものはなかったのが残念。 気をとり直して走ると、あっという間にもう熊本インターについてしまう。 阿蘇方面へはR57を行くのだが、これが結構広い道で走りやすい。 少しだけ太陽が顔を出していたので、これ幸いとオープンで走るのだが、 市内を抜けて山に近くなった頃に、また雨が降り出してしまったので仕方なくクローズ。 雨が止みそうもないので、雨でも大丈夫な所へ行こうという事で、「熊牧場」へ行った。 今は『カドリードミニオン』という名前になっていて、何やら楽しそう。 雨も小降りで、これなら傘もいらずに見てま回れそうなので良かったと喜ぶ。 雨のわりにには人も多くて、結構賑やかな園内でした。 色々な催しもあって、「ミニ豚レース」、「アヒル競争」などに投票しました。 娘が見事1等をあてて、景品を貰ってましたね。 途中から雨が激しくなって、傘を借りて回ったのですが、足元はびしゃ濡れ状態でした。 ここは熊がたくさん飼育されていて、餌をやったり出来るのですが、これが楽しいのです。 色々な種類の熊たちは、人に向かって「頂戴」のポーズをして餌をねだります。 餌になるのは食パンと、ニワトリ丸ごとですが、今日はパンにしておきます。 100頭以上の熊がいて、思い思いのポーズで、おねだりするのを見てるだけでも、 ここに来た価値があると思いますが、熊って何であんなに臭いのでしょうか。 他にも珍しい動物がいますので、一度行ってみられる事をお勧め致します。 さて、いよいよ今回の目的でもあります、火口へと思ったのですが昼食時なので、 草千里の駐車場のレストランにでも行って、何か食べようという事になりました。 お天気は回復して来て、何やら陽射しも出て来たようだが、何はともあれ昼ご飯。 草千里が見渡せる場所に陣取って、焼肉食い放題をしていたら、 雲がザワザワ湧いて来て、あっという間に何も見えなくなってしまった。 それでも食事がすんで外に出ると、馬が来ていたので触って遊びました。 霧が晴れるのを待って写真を撮ろうと思っていたのですが、 いっこうに晴れてくれず、写真を諦めて阿蘇山の火口に向かいました。 前回来た時は道を間違えてしまい、気づいた時にはかなり通り過ぎたあとで、 ひき返すのもおっくうで、そのまま帰って来てしまったので、 今日こそはと登って行きましたが、自然現象にやられました。 ガスが出ていて登山禁止という事でロープウエイも、運行中止でした。 諦め切れませんが仕方なく、「日田」方面に出て久留米に帰って来ました。 そこで一泊して、翌日帰路につきましたが、途中で「太宰府天満宮」に寄り道しました。 菅原道真公ゆかりの、学問のお宮は今のところ関係なしなのですが、初見参なので、 寄ってみましたが、感想としては「防府天満宮」と似てるなという主客転倒なもの。 あとこれも初めてなのですが、関門橋のSAに止って、 関門海峡の流れをじっくりと見れた事も、この旅の収穫でしたね。 あとはひたすら山陽道を走って、家に帰りつきました。 カドリードミニオン 草千里 / ライダーの草千里 太宰府天満宮 |
しまなみ 海道開通 |
『尾道〜今治』このあいだの島々を橋でむすんだ国道を『しまなみ海道』といいます。 正式名称は「西瀬戸自動車道」といいますが、殆どの自治体が愛称で呼んでいます。 1999年4月30日、仕事場で見た新聞に「三原・今治国道フェリー」が、33年の歴史に幕、 エ〜ッ、どういう事〜、何でよ聞いてないよ、とその記事をよく読むと、どうやら橋が開通、 しかし瀬戸中央道が開通しても宇野〜高松のフェリーはやってるじゃないですか。 しまなみ海道が見切り開通する話は知っていたし、それが明日だという事も知ってた。 でもそれと同時に「三原・今治国道フェリー」が航路廃止になるとは知らなかった。 新聞によると本日午後10時発の今治行きをもって、このフェリーは運行停止という事。 記事の通りなら今日の夜に乗らなければ、もう永久にこのフェリーには乗れないという事になる。 このフェリーには今まで色んな事でお世話になっていて、存続すると思っていたので、 これからもいつでも乗れると思っていたので、もう大慌てでこの最終便に乗りました。 モータリゼ−ションの拡大に対処する為に、要所的な港に大型フェリーが運行を始めましたが、 1968年の4月に社会にでた私と時を同じくして、ここ三原も対岸の今治の間を結ぶために、 「三原・今治国道フェリー」が設立されて新鋭の大型フェリーが就航して営業を始めたのです。 丁度その頃初めての仕事で、このフェリーの待ち合い室に商品を卸す事になったのです。 まだ高校を出たばかりの初々しい(?)少年でしたが、その会社の人達は優しい人ばかりで、 おまけにたくさん売れるものだからとても嬉しかったのを覚えています。 今治から着いたフェリーにも品物を積み込まなければいけなかったので、 時間を待ってましたが、売店の人も皆優しくて、仕事をするのが楽しかったのを覚えてます。 2度程積み込みに時間が掛かり過ぎて今治まで連れていかれた事がありましたが、 無賃乗船でしたがお咎めなしでよかったですが、往復約4時間は痛かったですね。 そんな時代からツーリングやドライブには欠かせないフェリーとして重宝していました。 四国の愛媛など西部に行く時はここで、香川、徳島へは宇野・高松と決めていましたが、 瀬戸大橋の開通後は橋の利用が増えて、フェリーはあまり使っていませんでした。 とくに高知道や、高松道、松山道、徳島道とハイウエイが出来るにしたがって、 フェリーに全く乗らなくなってしまいました。 フェリー乗り場が高速のICから遠いのが不便だった事とやはり時間の違いが大きな原因です。 いい天気で朝早く出かけられれば、そしてバイクの時には時々フェリーを利用してましたね。 バイクの場合、船内で寝ッ転がって休憩ができるし、なんといっても費用が安いのが魅力です。 車は殆どの場合家族4人が乗っているので、橋の通行料金のほうが安いのです。 そんな選べる状態も無くなってしまって、フェリーが無くなるのも時代の流れなんでしょうか。 この日仕事が終わって急いで家に帰って、長女が居なかった為、妻と2女を連れて急遽三原へ。 乗る人が居過ぎない事を祈りながら、発着場へ着くとたくさんの人がわいわいやってる。 車の数はそんなにいない、これは確実に乗れそうだと、列の後部に並ぶと前から5台目。 だんだんと最終の時間が近づいて来るにしたがって、人も車も増えて来る。 写真を撮ったりしながらも、色々な思いが頭を掠めてなんだか懐かしい。 そうしていよいよ最後のフェリーが入って来た。 その昔売店に荷物を載せたり、今治まで連れて行かれたり、真夏の夜の納涼大会のイベントや、 本当にこの三原側での出来事が浮かんでくる。 下船が終わり、乗船が始まり、あっという間に出航時間が来る。 デッキから下を見るとたくさんの人が見送ってくれている、みんな名残惜しいんだな。 この船が最後という事はもうこのフェリー乗り場には戻って来る事はないんだと思うと、 何だか寂しくて明るくライトに照らされた、この乗り場が見えなくなるまで見ていました。 妻と2女にはおそらくこんな感情は理解できないので私の行動は不思議に見えて事でしょう。 そんな感じで約2時間弱の船旅が始まりましたが、最後の航海は粛々と海上を滑っていきました そんなフェリーの船内で「愛媛新聞」のインタビューを受けました。 その時の記事には名前入で3行程ですが載っていましたので、後日愛媛までいって入手してます。 そうして日付けが変わる頃、今治港に到着したフェリーはたくさんの人の歓迎を受けて、 港に最後の船体を横付けにして、客が下りてしまうと、その仕事を終えたのでした。 それを見届ける間もなく我々一行は、開通したばかりの来島海峡大橋に向かって走ると、 生まれたばかりの「しまなみ海道」を、いやあこれは綺麗だとか言って走り続けたのでした。 えっ最後のフェリーへの哀しみはどうしたのかって、 そりゃあ消えるものより、産まれるもの、そんなものなんでしょうかね。 しまなみ海道 |