≪ジェニファ−の事、あれこれ≫


80年代画像 ジェニファーに行く ツーレポ番外編

ジェニファ−以前  

うれしい原免 スポ−ツカブに乗る
1966年の春、原付き免許を取得して初めて乗ったのは友達の『スーパーカブ』でした
その2ヶ月後買ったのがクラッチ付きの『スポーツカブ』ですがもうすでに自動2輪免許を持っていて250CCを狙っていた
翌年の夏にバイトをして当時のお金で30,000円で1961年のCB72(タイプ2)を手にいれた
ホンダ ドリーム250というこの単車はバーチカル空冷2気筒のエンジンを搭載したスポーツタイプで人気者でした
まあこのバイクについては多分殆どの方が御存じでしょうから説明はいらないでしょう
今は混雑していてあまりスピ−ドの出せないR2の尾道と三原の境の海岸沿いで友人(CB72タイプ1)と競争した
勝敗は忘れたがカタログ性能の最高速155Km/hをマークしたのが一番の思い出です
夏の夕日を浴びながら17歳のまさに青春のひとコマでしたね
大排気量バイク(CB750)登場
1967年頃ホンダからN360という軽自動車が発売された
エンジンル−ムを覗くと殆どバイクのものと変わらないエンジンが積まれていた車でこりゃあなんだ!!とおもったものです
価格は確かスタンダ−ドで30万ちょっとだったと記憶しています
何故N360の話しを出したかというと実は殆ど同じ頃ホンダからCB750というニュ−カマ−が出ていたのです
バイク族としては4本突き出たマフラーやフロントに装備されたディスクブレ−キに溜息でした
しかしそれ以上に溜息が出たのはその価格だったのです、そうです自動車よりも高かったのです
お金持ちには関係の無い事だったかもしれませんが当時薄給のものにとってバイクにそんな金額はかけれませんでした
所有したい、乗ってみたい、という思いは強かったのですが現実は4輪の所有が精一杯でした
このホンダ ドリーム750も今さら説明は不要だと思いますので省きます
それから10年近くががたって
1978年頃実家で朽ち果てていたCB72を見つけた
まるで邪魔になったゴミを見るような感じで2年後にはスクラップ屋行きとなっていた
あくまでも邪魔物扱いした人の所為で、気付いた時はもう無かったというのが実状
しかしその事がかえってバイク魂に火をつけたのです
Kawasaki Z2に出会った日
ちょうどその頃、仕事の関係でバイクショップに出入りしていて冗談から今や伝説のZ2を手に入れる事になった
「5万位でナナハンとか乗れないよね?」「探してみようか」という会話が発端だった
1980年頃の世情といえばバイクにとってはかなり厳しく中古車はどちらかといえば買い手市場だった
それでもナナハンを5万円で買うには本当に冗談のような要求だったにちがいなかったのだが、、、
答えたバイクショップの店長もきっと社交辞令的に交わした言葉だったように思えたのだが
その後数週間もう忘れかけた頃(すっかり忘れていた)「問題有るけど5万円実動車検半年」連絡が来た
「問題って何?」「マフラーが集合管で純正は無し」「それってヤバイ?」「おまわり次第」
当時は集合管→暴走族の図式が強かった為、ショップなどで販売する為には純正品に必ず戻していた
その為改造車などは純正部品が無ければショップでは扱わない事が多かった(ビ−トの直管がついていた)
少しばかりバイクから離れていたので事情に疎くなっていたのでヘルメットをかぶらなければ走れない事を知らなかった
さらにその集合管の所為で通勤途中に同じ場所の検問に毎日のように止められてクサっていた
さすがに違反切符は勘弁してもらったが「大型免許の人は見本にならなきゃいけないでしょう」と代わる代わる言われた
「毎日見かけるのだから覚えて下さい」とも言えず「ええ」とか「はい」とか答えてた
4本マフラーにあこがれていた
ホントはCB750のあの4本マフラーに乗りたくて「ナナハン」「ナナハン」と言っていたような気がする
しかし良く考えてみるとZ2も元々は4本マフラーでしかも純正のスタイルはカッコいい
そこで純正のマフラーにしようと思ったらバイクの倍近いお金がかかるらしくてあきらめた
Z2が安く手に入った理由がやっと理解できたのでした
Z2の事は今さら述べるまでも無く本当にチョ−有名なので乗っていたと言う事だけにしておきます
とりあえず4本マフラ−は当時のバイク野郎の憧れだった事は間違い有りません
ここでちょっとホンダN360の話
1968年、初めて自分のお金を出して手にいれた車でとても嬉しくて乗り回した、という思い出が有ります
2万キロ程走っていた中古車を23万円で手にいれ1年くらいで10万キロ程走って新型にかえました
今思うとあんな車で高速道路もない時代に南は鹿児島、北は青森まで行った事に驚いています
それでいて故障したという記憶がないのは壊れなかったということなんでしょうか、それもビックリ
乗り回したのは公道だけではなく当時やっていたジムカ−ナで戦績はパッとしなかったがこいつで12,3戦したように記憶している
足まわりが当時は部品が少なかったが意外に安くて(リヤサスはなんと板バネ)よかったことや
排気管の取り回しが簡単で改造が容易に出来た為1台でレ−スと公道の両方に使ってた
レ−スの時は直管で往復にはエキパイのテ−ルにサイレンサーをバンド止めしてごまかしてた
ある日R2を普通に走っていて尾道警察署の前辺りで突然の爆音、そうですサイレンサーが抜け落ちたのです
車を停めて拾いに行くか、逃げるか、、、それ逃げろ〜でしたがサイレンサーはあとでも見つからなかった
またセコ屋さんでうさんくさい奴という視線を浴びながらサイレンサーを調達しなければという羽目になってしまった
しかしこりゃ単車の話しのページなのにこの1台目のの事は話題尽きせずになりそうなのでちょっと休憩
話題が外れるけど面白い事
今までの流れからするとほんの少〜しだけ違った話しになるけどお付合いよろしく
1966年の夏休みのある日バイトが終わって久山田(尾道市)の友人家に行っていた時の事でした
山道(舗装路なんかじゃなかった)をちんたら30キロ位で走っていたときのことでした
スポ−ツカブに乗って行ったのですがスポ−ツカブの名誉のためのいっておきますが100キロ以上は軽くOKの単車です
その時の出で立ちはと言うと、隣の福山市にあった「アメリカ衣料店」で買ったリ−バイスという会社の作ったらしいジーンズズボン(裾が細くてやたら短い、スカマン正式名称横須賀マンボズボン)に、たしか月星印のバッシュー(ハイカットのバスケットシューズ)を履いて、『VAN』という当時若者達に流行していたブランドの白の綿のカッタ−シャツ(裾はジーンズズボン<笑>の下にいれてた)を着て、首には粋な柄のスカ−フなんぞを巻いて、今想像すると恐いよ〜、、なんですが実は問題が起きたのはかぶっていたヘルメットだったんです。その頃は単車に乗る時にはヘルメットなんぞは不要でそれこそ顔面に心地よい風を受けて突っ走る!でした
その日は先輩達が使いまわした黒いフルフェィス(と行っても内装は全て剥がされ、シ−ルドも顎紐も無くとてつもなく汚く旧いモノ)をかぶってカッコよく極めたつもりで鼻歌混じりだったのです。それが災いになろうとは思いもしませんでした。前方におまわりらしき姿が公用バイクと共に現れましたが、まあ別にこちらにはなんの問題もないと思っていたので普通にすれ違おうとした時バイクに乗ったまま笛を吹いて止まれのポーズをいきなりしやがった。逃げる気も無かったので止まると奴は免許証を見せろという。
そしてあの言葉が出て来た
「そんなもん(メットの事)かぶっとたら音が聞こえんけぇアブにャ−(危険の意)じゃろーがー
なんしょんならばかたれがー、どけぇ行くんな、今日はええけどこんだぁいけんで
かぶるんならこぎゃ−な耳がでるんじゃにゃーといけんけーな、覚えとけーよ」

まあ昔だから仕方が無いが生きていたら恥ずかしがって欲しい国家公務員よ、てなところです
あと確かビ−ト工業さん(間違ってたらごめんなさい)の広告(オートバイ誌掲載)
『パワーもりもり、しびれるサウンド、GT380用集合管』(笑)
そんな迷走を続けて今が有るのかもしれませんね
この一文は知り合いの単車大好き悪魔「デーモン☆なかじ閣下」に捧げます
あなたが地球にやってくる前には世の単車事情はこんなものだったのです、面白い話はこれまで
壊れたKawasaki
Z2に乗り始めて半年近くがたった頃、車検の事を聞いて驚いた
必要な金額がなんと諸経費を含めると車よりも高くなってしまうということで頭を抱えてしまった
車検をどうしようかと色々考えながら何日かが過ぎた頃突然ギヤのシフトが戻らないという故障に見舞われてしまった
でもその時はまだ「すぐ直る」だろうと思っていたので少々不便だったが手を使ったりして乗っていた
バイク屋さんに持っていくと、よく有る故障なのだけれど手間が掛かるので料金も掛かるといわれがっかりした
その時にはよく知らなかったのだがZ2は旧メグロ系の構造が残っていて右チェンジをリンクを介して左に持って来ていたらしく
「オイルパンを割ってから」とか「リンケージ用のスプリングが」とか何やら難しい説明をして面倒さを強調してくれた
車検費用と修理代を計算すると破産しそうで、それでもZ2が今のように高値である事が分かっていれば持っていたかも知れないが
当時はそれなりでプレミアなど無関係だったので手放して次のバイクの頭金(何千円かだった)にしてしまった
その当時大型バイクの代名詞は「CBナナハン」で皆かどうか知らないが
「早川 光」に憧れたりもしていたが、やはりCB750は雲上人だったし
大型バイク免許者の数が少なく比例してバイクそのものの流通も少なかったので早く手にいれたいと思うだけ
選べる程種類は多くなかった、その事で隠れた名車(迷車?)に乗る事になった
ヤマハ "XJ750A"を知ってるか〜い
Kawasakiが壊れてしまって一月位したある日、Z2の代わりを頼んでいたバイクショップに「ナナハン」が停まっていた。
ややアメリカン方向へ振ったデザインでボディカラーは黒、でも迫力はそれなりにあったように思う。
話を聞くとショップのお客さんのバイクで、買い換えをしようかと検討中なので査定に来ていたらしい。
1回目の車検を控えてどうしようかと悩んでいた持ち主は、高校の教師で3000キロ程しか乗っていなかった。
あまり興味を引くような感じでは無かったが、新車の様な綺麗さとその割に手ごろな価格に負けてしまった。
どう見ても傷ひとつないボディや車検費用(当時、自賠責保険が7万円近くした)込みで30万円は思考回路を試行錯誤に陥らせた
こっこれ、くださいッ!!
その叫び声は福山の町中に轟いたと思うくらいだったに違い無い。あ〜はずかしー
選べる種類が少なかったのがXJ750Aを買った原因では無く、ただカネが無かっただけみたい(クスン)
こうして手に入れたヤマハXJ750Aはまさに楽しい乗り物でした。
あのー、ちょっとここらでジェニファーについて「まだ?」と言われそうなのでおわびm(--)m
実はXJ750Aの話がまだたくさんあって(これが結構面白くて)そのうえ、もう数台の単車の事を書いて
やっとジェニファーに辿り着くはずですので、もうちょっと待ってて下さい。
XJ750A:アメリカではラグナ・セカの名前をもらってヤマハ750セカと呼ばれてたらしい。
写真で見るとカッコいいよね。ねッ ねッ(∪ヘ∪)
このスタイルに集合管?
などと言われながらもひたすら耐えてお願いして
「ヨシムラサイクロン」を取りつけて見ましたが結構似合ってた。
それならばと、調子にのってハンドルバーをXJ−Eの純正に交換してみた。
写真で見る通りXJ−Aのハンドルはフルカバードになっていてしかもアップ気味。
心持ち前傾姿勢に憧れていたので、グリップ位置が15センチくらい下がると聞いて即決でした。
取り付けたあと始めて見た時には「オオ!!」と喜びを隠しきれてなかったが、見ると乗るでは大違いな事が、、
妙なポジションを強いられて手首は痛くなるは、腰は痺れるは、首は上を向いたまま力が抜けないは、なんやらかんやらで
慣れるまでかなりの苦労が必要でしたが、結局最後まで、やってよかった改造ではなかったと思ってた。
しかし、その改造を施したまま「熊本」「宮崎」へと一泊ソロツーリングに出ました
まだその頃は「中国縦貫道」(現 中国道)しかなくて、しかも広島と山口の境辺りは片側一車線でトンネルの中は恐ろしかった
その時の間抜けな話、、福山から九州に行くのに三次ICに向かわず東城ICから乗ってしまった
そんなこんなでスタートした「阿蘇」「高千穂」一走りソロツ−リングは
「東城」「熊本」を6時間で走りその日の内に「高千穂」観光を終えた
当然身体中がハンドルのおかげで元気よくてアドレナリンが駆け巡ってた(訳→爆死)
途中でお巡りがスピ−ドの取り締まりをしていたが通り過ぎて爆音まき散らしてやった(ほんのすこ〜しだけね→小心者)
熊本、宮崎がまだまだ繋がりが悪くてR57から「阿蘇」の山裾を通り、山道をひたすら高千穂へ
そうして着いたのが「日之影村」ホントに日の影で木々の間からもれる光がたよりでした。昼間なのにね。
もっと他に「らしい」ネ−ミング出来なかったのかねえ「天照大御神」のホームグラウンドっていうのにね。
しかし、よく頑張って走ったものだと感心しながら観光して「高森町」の安宿にワラジを脱いだのだ。
2度目の阿蘇山
身体の痛みもなく、結構早くに眼がさめたので朝食を貰って、AM7にスタートした。
季節は5月の中ごろだったので、まだその時間はすこし肌寒くて阿蘇の山頂は煙ってた。
宮崎側から来た形なので登山口を通り過ぎて「草千里」に行った。
ここの景色はただひとこと「広い」で感動したのを覚えています。
ここがその後いつからかバイクの集合場所として有名になるとは思いもしませんでした。
ここで時間を潰して再び阿蘇の火口に向かったが、まだ綺麗に晴れていなかったが登った。
10年ぶりのその場所は前回の記憶が曖昧で(すっかり忘れてた)初めてのような新鮮さを覚えた。
事実、火口の周辺を物珍しさで2時間近くもウロ付いてしまい、気付くとお昼近くになっていた。
阿蘇山の生命に溢れた活動ぶりには共鳴する何かを感じますね。
しかしその次にここに来るのは、又10年以上の時がたってからになるのです。
う〜む、人生はなんて忙しいのだろう
唐突にVF750F
このV型4気筒ツインカム16バルブを積んだナナハンは、あの8耐常勝マシンのもとになったモデルです。
最初のVFモデルはVF750Sといって見るからに重そうなボディでした。
しかもツ−リングモデル的な雰囲気で、ご丁寧に同じエンジンをのっけたVF750マグナなどというアメリカンモデルまであったのはあまりにも興味をそがれてしまいましたね。
あまり興味の無かったモデルが突然「F」というネ−ミングとレ−サ−スタイルで発表されました。
結構衝撃的だったのですが、価格がとても手の出るようなものではなかったのです。
新車発表から2年あまりが過ぎて、ある情報が購買意欲に火をつけました。
何とVF−Fが半額投げ売りをしていてあと何台か残っているけど
いりませんか?とバイク屋さんに言われ即買いでした。
初めての新車と言う事と当時から少しづつ過激なスタイルヘと
移り変わるオ−トバイの先駆け的なこのVFはかなりお気に入りでした。
後はなんといってもそのカラ−リングが気に入りました。
それまでの国産車は単色で暗い色が殆どで、トライアンフやドゥカティなどの色使いに溜め息ものだったからです。
トリコロ−ルの鮮やかさに拍手「ホンダさんえらい〜」
おまけに前輪16インチという当時のレ−サーの主流だったホイ−ルサイズは、思った通りのラインで
コ−ナーをクリアしてくれて思わず自分の技術の高さと勘違いする程の気持ちよさを味わえましたね。
1986年の夏
1984年、鈴鹿8時間耐久オ−トバイレ−ス(8耐)は、
それまでの排気量上限が1000CCから750CCに引き下げられた。
その2年後の8耐の日、VFで8時間走り抜くという、ひとり耐久をやった。
当時この辺りには「中国縦貫道」しかハイウェイが無くてここでやる事にした。
AM11:30に東城ICに入り、VFは久しぶりの高速道路をひたすら東に向かった。
V4サウンドは非常に不人気だったのだが走っているライダーには殆ど関係なくて、
音よりもそのV4エンジンの振動の心地よさが気持ちよかった。
まだ路面の状態もよくてアップダウンやコーナーの人工的な作為に
きっちりとトレースして行くVFに思わずアクセルが開いてしまいましたね。
スピ−ドメ−ターの表示は180Km/h迄しかなかったのですが 針はそれを超えた所を指してました。
もちろんそれは瞬間スピ−ドでは有りましたけど、回転計にはまだ余裕が有りました。
まったくのノ−マルなままで、メ−ターを振り切りまだ加速しようとするVFの底力には驚きました。
一度だけガス補給の為にSAでストップしてトイレと水分をとった以外は東上しました。
そうしてPM3:30ころに折り返しの為のICを下りました(彦根)
ハッキリと覚えてはいないのですが420キロ位走っていたと思います。(ここは名神高速)
あと20キロくらいで有名な「関ヶ原」だったが8耐なのでここで引き返す事にした。
帰り道はあまり変化がなく少しスピードも落ちてしまって、東城に着いたのはPM8:40頃になった。
4時間かけて行った道を5時間以上もかかって帰って来たのは何故だろう。
それは多分往路で出会ったデカイ「メルセデス」の所為だと思います
品川ナンバーのシルバーのそいつは佐用辺りであらわれると150キロ位で巡行していたVFを
事もなく抜き去るとあっという間に見えなくなる程のスピードで走っていた。
慌てて追い掛けはじめたがまったく追いつけず、山崎で追い付いたがまたあっという間にはなされて、
その後メーターを振り切っても、その後ろ姿さえ見る事は出来なかったのです。
メルセデスが引っ張ってくれたのが往路の距離の出た原因だったと思います。
何はともあれこの夏は8耐気分を多いに味わう事ができました。
VF転倒記
もうすでに寒くなりかけた頃、1988年の10月でした。
休日を利用していつものように走っていました。
その頃は休日が殆ど平日で、R182も今のように交通量が多くなくて思うように走れていました。
その日はあまり着る機会の無かった革ツナギを着て、いわゆるフル装備スタイルでした。
結構力の入った走りになって
交通量の少ないR182を北上していました。
慣れた道路で風も心地よくてよかったのですが
久しぶりに着た革ツナギになじめずにはしっていました。
東城を過ぎて、米子に行くか新見から岡山方面に行くか
悩んで結局米子へと向かいました。
R182からR314を抜けてR183に入って、途中からR180に
日南湖の周遊道を(当時は工事中ばかり)下って行きました。
そして桜で有名な西伯を抜けると米子市(鳥取県一の都会)です。
やはり今日は絶好調で天気もよくて来てよかったなと思いながら
米子の町をひとまわりして止まる事なくR181へ乗りました。
この道は大山の下辺りをかすめて根雨を通って津山まで繋がっています。
日野町で再度R183に入ってあとはひたすら帰って来ます。
この日が3度目の革ツナギはまだ充分に身体に馴染んでなくて
少しだけ動きにくい感じがしていましたが、まさかこの革ツナギに助けられるとは思ってもいませんでしたね。
それはまさに突然の事でした。
R314の小奴可辺りのタイトなコ−ナーを下っていた時の事でした
これがハイサイドと言うものなんでしょうか、VFはいきなり横を向いたようになって、振り落とされて激しくアスファルトの上を滑って行く自分の視界の中を、VFは右前方にこれまた激しい摩擦音と火花をあげながら滑って行ってました。
この辺りは今でもそんなに交通量は多くないのですが
当時は平日などはヒッチハイクもできないくらい車が少なくて命拾いしました。
身体は結構打ち身が激しくて1時間程動けなかったのですが、骨折も出血もなくて暫くじっとしていたらとりあえず回復して来ました。
運がよかったのか不幸中の幸いと言うのか、VFは道のはしまで転がって行ってたので、そのままにしておいても邪魔にならなかったので助かりました。
まあそれまでに何人かが止まってくれて声をかけてくれたのですが大丈夫だったので行ってもらいました。
身体を動かせるようになってVFの所に行ってみると
これが結構悲惨な状態になっていて、びっくりでした。
クラッチレバ−がどこかに飛んで行ったらしくて無くなっていた。
ミニカウルがわれてみっともないかたちになっていた。
あと左のステップが折れて転がっていた。
マフラーも大きな擦り傷がついていて取り付け位置がずれてた。
半額投げ売りとはいえ
新車で買って磨いていたのにきずだらけになって呆然でした。
しかし大変だったのはクラッチレバーの破損でした。
じつはVFのクラッチは油圧クラッチでレバ−がないと動きません。
そこでニュートラルにしてエンジンをかけ、押して振りをつけて飛び乗ってから無理矢理2速にシフトアップ、そしてあとはスピ−ドにあわせてクラッチなしのギヤチェンジ。
止まるとまたその繰り返しなのでできるだけノンストップで帰って来ました。
シフトアップはそうでもないのですがシフトダウンはタイミングがむずかしかったですね。
3度目の着用できずだらけになった革ツナギです。
アスファルトの上を滑った感触は、この革ツナギのおかげで怪我もなく記憶に残っています。
もしこれを着ていなければ皮膚はボロボロだった事でしょう。
その後着る事もないのですが、時々引っぱり出してみるとあのVFの激しい転倒の記憶がよみがえって来ます。
これを着てジェニファーで走ってみたい気もしますが・・・
RZV500R
御存じの人も多いと思うのですが、1980年代のバイク事情はほぼレ−サ−レプリカ一辺倒。
ホンダ・・NS、ヤマハ・・TZ、スズキ・・RG、カワサキ・・KR
そんな時代を象徴するマシンが、海外で発売されたRD500でした。
その国内向けモデルが『RZV500R』で、確か2000台の限定だったように思います。
スペックはガチガチの規制の中で、そのスタイルだけが「YZR」を思い起こさせるもので、
中身はただの「大排気量2ストバイク」としか呼べない位ひどいもの。
チューニングのベースとしての価値なのか、それともそういったものに飢えていたのか、早々に完売してしまったらしい。
その中古車を手にいれたのは、発売後2年程してからだった。
初めて乗った感想は、振動の激しさに驚いた事くらいで、やはり「バカっ早い」のはイメ−ジだけだった事に少し落胆した。
25万円程で1万キロも走っていないRZVが買えたのは、売り主が知り合いで持て余していた事が幸いしました。
けっこう手入れされていて、当時はまだ珍しかったフルカウルのカウルにもきず一つなくて、今なら5、60万円でも売れたかも知れないくらい綺麗でした。
VFとくらべると格段に軽くて、取り回しもラクチンでした。
普段の足に使うと6速のうち3速までしか使う事が出来ずに(YPVSという排気デバイスで低速トルク確保などといわれていたが、それは嘘)燃費は最悪でリッタ−あたり7、8キロしか走ってくれませんでした。
面白かったのは7000回転から上の部分で10000前後まで回してやると、軽量なボディのせいで異次元な加速が体験できましたね。
しかしノースモークタイプのエンジンオイルを使用していても、4本のチャンバーからは煙幕のような白煙が出て、それでなくてもイメ−ジが悪かったバイクを更におとしめていました。
それにもめげずに少ない休日にVFと交代で走り回っていました。
ある日とんでもない事が起きてしまい2ストエンジンに驚かされてしまいました。
その日はイイお天気の初夏でした。
相変わらずのショートツーリングで、米子あたりまで走って来た帰りでした。
東城の近くまで帰って来てひと休みする為に道路脇のパ−キングへ入りました。
けっこう広いそのパ−キングの端のほうに缶コ−ヒーの自販機があったので、
RZVをとめてそこまで歩いて行きました。
缶コ−ヒ−を買って、飲みながら振り向くとそこは広いパ−キング。
なんか変な状況だが、何が変なのか解らない。
一瞬頭がボ−ッとしていて「んっ」という感じで見回してしまった。
自分が今RZVをとめて、歩いて自販機の前まで歩いて来て、缶コーヒーを買って、振り向いてみたらRZVが消えていたのだ。
そうなンです確かにとめたと思えるあたりにあるはずのRZVがなくなってて、一瞬間があって頭はパニックになった。
さてここで問題です
止めたばかりのRZVはどこへいってしまったのでしょうか?
1:宇宙人がUFOに積み込んだ。
2:そのへんのわるガキが早業で盗んだ。
3:その他


ピンポ〜ン、そうです3番が正解で〜す。
実は止めた場所が少しだけ坂になってて、
勝手に動いて自販機とは反対側にある溝の中に落ちてしまっていたのです。
少し傾斜がある所に止めたりする事はよくある事で、
ギヤを1速にいれておけばいつも大丈夫だったので今回もそうして止めたのです。
ところがあとから知った事ですが2ストは、そうしてても関係なく動いてしまうのだそうで、
無知から来る失敗の為に、溝にひっくり返ってしまったRZVでした。
溝に落ちたRZVはとても重くて、結局引っ張りあげるのに、
そのパーキングに来たみなさんのお力を苦笑混じりでお借りしました。
逆さになっていた時間が長かった為に、
キャブがガソリンで溢れていて、エンジンがかかるまでには更にもう少しそこで間抜けをしてました。
おまけにそれまで瑕ひとつないボディは、見るも無惨なほどで、
無数の引っ掻き瑕でまるでそれが本来の模様のようになってました(TへT)
RZV500Rの軌跡
乾燥重量が170キロというと昨今ではリッタ−バイクの重量ですが、当時は400クラスの重さでした。
本来のパワーは100PSを超えているのですが、前述のように規制が激しくて64PSでした。
ノ−マルで扱っていると、常に回転を気にしなくてはならず、下手に低回転でスタ−トでもするとエンスト。
したがって何だかモタモタして見えてしまって、伝説のYZRレプリカとは思えない(ウデが悪かったのかも・・)
チャンバーを替えれば本来のパワーになるというような事もいわれていたが、交換部品は高価で諦めた。
SPTADAOの21万、ル−ニーの13万まで数種類のチャンバ−があったが、本体が25万なのにそれは無理。
そこで考えたのは、いつも回転を上げたまま走るという事。
すなわち常に2速か3速しか使わないでおけば、結構キビキビした動きになって良い印象になる。
おまけに2ストなのでエンジンブレーキも効かないのでギクシャクせずに済む事も良かった。
そんな変な乗り物はこの頃のツーリングには殆ど使っていなかった。(燃費とタンク容量の所為)
もっぱらホントの意味のハイスピードショートツーリング専用になっていました。
ある日思い立って出雲迄走る事にしましたが、やんちゃ娘の本領を発揮してしまいました。
往路は上下町から吉舎でR184に出て、三次からR54にのってひた走りでした。
時間は記憶にありませんがかなり早く着いていたと思います。
日御碕まで行って、駐車場から歩いて灯台を見にいきました。
帰路に着いたのは15時頃で、まだまだ気持ちよく走れるころでした。
異変に気付いたのは総領町の辺りのコーナーでした。
今は「灰塚ダム」の底になってしまう辺りなのですが、当時は草原地帯を貫く舗装路で
交通量は殆どなくて飛ばし放題の道でした。
いきなりグニャグニャとリアタイヤが流れていって、大慌てでしたが幸い転倒は免れました。
何か踏んだのかと思い、とりあえず止まってみたのですが、取り立てて変わった様子も無くてまた走り出した。
今度は直線で、それも130キロ程のスピ−ドなのにリアが振られて、驚いてしまった。
再度とまってみたのだが、よく解らない。
別に異状らしきものも無いし、なんだろうと思って良〜く見ると
タイヤに大きなバ−ストの穴
これでは走行不能かっと思いきやゆっくり走れば、どうやら大丈夫そう。
タイヤは捨てるつもりで1速走行、20キロ以下でちんたら走ったのですが
家に着くのはいつの事やら、バイク屋さんは定休日の2重苦、どうするべえ。
そこでそのまましばらく走り、三和町まで帰ってきて我家の救援隊を呼んで軽トラの出動と相成った。
幸いにもホイールは無傷だったので、そのままバイク屋さんへ直行、店の前に置いて帰った。
転倒しなくて善かったのと、タイヤの交換時期も近かったので、被害が少なくて済んだ。
あとでバイク屋さんに聞いたら、この頃はパンクしても走れるようになっててそのまま来る人が多いらしい。
最もタイヤはもう使えなくなるらしいけどね。
でも往路で無くて善かったと今さらながら思っています。
RZV500Rの死闘
1991年の初夏、梅雨の合間の暑い日の土曜日、友人の1987年型の青いFZR1000とツーリング。
神辺町のR313で待ち合わせて、そのまま北上して蒜山、大山ひとまわり。
井原市から川上町あたりまでは、抜きつ抜かれつの大バトルでぶっ飛ばし〜。
500といえどもYZRレプリカの威厳もあって、1000に一歩も遅れをとらず。
2ストの瞬発力と車体の軽さを武器に、相当がんばって走りましたね。
高梁市からは車が多くて、のんびりツーリングの様になってしまい大ストレス。
突然、前を走っていた友人が、北房のインターに入って行くので続くと、入り口で休憩。
R 313が混んでいるので、落合まで高速に乗ろうとの事。
よっしゃ〜RZV本領発揮か〜、誰でもそう思ってしまいますが事実はまったく別な形でした。
缶コーヒーを飲みながら、友人がいうには初めて高速に乗るらしい。
最高速も180キロ迄しかだした事が無いらしいが、今日は試してみるとの事。
内心1000といえども750のちょっと大きいの、くらいにしか思って無かったので
RZVのひとひねりには着いて来れないだろうと、優越感ありありでしたね。
休憩も終わって、本線に突入すると中国自動車道はガラガラに空いていて、思わずニンマリ!
ふと見ると青いFZRははるか彼方にすっ飛んで行っている。
2、3、4速をレッド超まで引っ張ったが、追いつけない。
スピードメーターの針ははこの時点で、180キロを超えて200キロ辺りをウロウロ。
RZVに限らず国内仕様の、スピードメーターは180キロまでしか表示して無かったので
だいたいの速度しか解らなかったのが現状でした。
しかしそのあとも、振られる車体にしがみついて6速までシフトアップ全開を試みましたが
いつまでたっても先行するFZRとの距離は縮まりませんでした。
途中で振り返ると後ろは白煙で見えないくらいになっていて、たぶん精一杯だったのでしょう。
北房・落合わずか13、4キロの高速勝負で大敗を喫してしまった、至上最強と言われた、
2スト500レーサーレプリカ、RZV−Rに愕然としてしまいました。
落合ICを出て、R313を蒜山方面に向けて走りましたが、ショックは残っていました。
蒜山のレストランで昼食をとりながら、高速の話を聞くと、更なるショックが有りました。
FZRはメーター読みで260キロ出ていたが、まだ余裕があって、アクセルを開けると加速しそうだったらしい。
RZV−Rは車体が揺られて、道路の継ぎ目では跳ね上がって、どこへ飛んで行くかも解らない様子。
どうやら「ナナハンヨリチョットダケオオキイヤツ」ではなかったらしい。
しかし蒜山や大山のスカイライン、更に帰路のR180、R183、R182はタイトなコーナーが多く
でかいFZRではさすがに重くてスピードダウン。
やっとRZVの出番となりましたが、頭の中はリッタ−バイクの事を考えていました。
おまけ話・・ブルゾンの背中がオイルで黒くなっていた(2ストの宿命?)

**ジェニファー以前はこれにて終わりです。**





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